ワインとチーズマニアの翻訳者日記

ワインとチーズに目がない英日翻訳者の記録です。チーズ、ワイン関連の書籍や関連記事の訳文を紹介します。

『世界のビール図鑑』翻訳出版記念イベントの記録

 年頭に、週に一度はブログを更新することを目標の一つに据えておきながら、すでに守れていません。それはともかく、この1月から始まった出版記念イベントについて反省をしておきたいと思います。

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 この1月に拙訳『世界のビール図鑑』が発売されて以来、昨日までに3回の出版記念イベントに登壇させていただいた。日ごろ自宅にこもってひたすらパソコンと向かい合って過ごしてきた自分にとって、人前に出て、自分の訳書の特徴や読みどころをアピールする場など、生まれて初めての経験だ。昨年の初夏のころだろうか、本書を訳していた真っ最中に監修者の熊谷氏からイベントの構想をおききしたときは、まだ分厚く小さな字がぎっしり詰まった原書を訳す大仕事で手一杯だったため、まったく実感が湧かなかったし、自分にそんなことができるだろうか、何を話せばいいのだろうかと、不安もあった。

 これまでに下訳を含めて6冊の翻訳に携わってきたけれど、いずれの場合も本が発売されて献本が届くと、「やれやれ終わった…」と胸をなでおろして終わるばかりで、発売後の宣伝を考えたことはなかった。けれど、翻訳家の越前敏弥氏が、「翻訳家は自分の訳書を世間に知ってもらう努力をしてほしい」という主旨のコメントをされていたのを思い出し、イベントはまさに絶好の機会になるのでは、と思い直して、昨年12月ごろから、イベントでの講演内容を練って過ごしてきた。それにしてもいったいどんなことを話せばいいのか、ひじょうに悩んだ。ビールに関する知識なら、おそらく私などよりも、参加者のほうがはるかに豊富な知識をもっているはずだ。私に話せることといったら、この本の特徴と魅力、訳していた期間にあれこれと思い悩んだことや印象に残ったこと、そして翻訳という仕事の魅力のようなものだろうか。とにかく、原稿を何度も書き直し、タイマーをセットして実際に話してみる練習を重ねて1月20日の静岡イベントを迎えた。

 会場を提供してくださった静岡街中のビアパブ『ビールのヨコタ』さんでは、昨夏にベアードビールの方が見えてビールの発酵をテーマに据えて、興味深い講義をしてくださった。参加者の皆さんのビールに寄せる好奇心と愛情に圧倒されたことを覚えている。同じ場所で半年後に自分が登壇する機会を与えられようとは思いもよらなかった。当日は用意した原稿を読み上げるのに精いっぱいで、持ち時間の30分が終わると、のどがカラカラになった。はたして参加者のみなさんに興味を抱いてもらえるような話ができたかどうか不安でいっぱいだったけれど、前もって本を購入し、あちこちに付箋を付けてくれたうえで質問を投げかけてくれた方や、会場で本を購入してさっそくページを開き、「読みごたえがありそうですね!」と話してくれた方、「おもしろかったよ!」と声をかけてくれた友人に、おおいに救われた。

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ビールのヨコタ 木をふんだんに使った店内は温かみがあり、1人でも気軽に入れる雰囲気です

beer-yokota.com

 2回目は東京下北沢の『本屋B&B(ブックアンドビール)』が会場となった。魅力的な棚展開の本を眺めながらビールが飲めるという画期的な書店で、毎日欠かさず、本に関するトークイベントが開催されている。音楽に関する書籍がテーマになった会ではトークだけでなく、演奏を楽しめる場合もある。近くにこんな店があったら毎日でも通いつめたくなるだろう。近くに暮らす人たちが心底うらやましい。

 開催日の3日前だったろうか、東京は大雪に見舞われ、下北沢の街中もまだあちこちに雪が残り、凍った道を転びそうになりながら会場にたどりついた。この日はFar Yeast Brewingの山田司朗氏も登壇されることになっていた。数日前の静岡のときよりゆっくりと、できるだけ参加者の皆さんの顔を見て話そうと心掛けていたけれど、目の前にタイマーを置いて話していると、わけもなく焦ってしまい、目線は(おそらく)泳いでしまい、用意していたパワーポイントの操作に手間取るというていたらく……。やはり人前で話すのは難しい。私には向いていない作業だと思い知った。日ごろ多くの学生を相手に授業を展開している先生や教授のみなさんを心から尊敬する。

 私の次に登壇された山田氏は、やはりあらかじめ本に目を通されていて、専門家ならではの視点から、この本の特徴をたいへんわかりやすく話してくださった。なかでも「これまでのビール本でフードペアリングを取り上げたものはなかったが、この本は最近の傾向を踏襲してフードペアリングを紹介している」、「サンディエゴとオレゴンクラフトビールの象徴のような土地であり、本書もこの地域に詳しい」という言葉にハッとした。訳すのに必死で、こうした俯瞰的な視点から本を眺めることができていなかったのだ。翻訳者にとって、訳書はわが子のようなものであり、できあがった本が届くと、ひしと抱きしめては「よく生まれてくれたね」とついつい感慨にふけってしまうもの。私には子供がいないが、身近なわが子のこととなると、どうしても主観でとらえるようになってしまうものではないだろうか。その子供、つまり本がどういう特質を備えているかを、冷静にとらえるのはなかなか難しい。いや、優れた翻訳者ならそうした分析も可能だろうが、私にとってこの本は、とりわけ難産、つまり訳出に苦労した記憶がいまだ生々しく、冷静に眺めることができていない。それだけに山田氏の客観的なコメントには学ぶところが多かった。ほんとうにありがとうございました。

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拙訳について語ってくださったFar Yeast Brewing 山田司朗氏

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細かいテーマ別に類書をまとめて展開するB&B 単行本から文庫、新書までがひとつのテーマの元に同じ棚に並び、次々に欲しい本が見つかります

bookandbeer.com

 

 この日は翻訳仲間とサンバ仲間、そして中学時代の同級生たちも来てくれ、たいへん心強く、ありがたかった。東京に住む姉もビール好きな友達を誘ってかけつけてくれ、登壇後に「話し方のこの点が悪い」とダメ出しまでしてくれた。肉親ならではの言葉に感謝する。また、参加者のなかには、ビールと料理のマリアージュを指導するビアコーディネイターを目指す方や、世界中のビールラベルを収集している方などがいて、やはり大都会のビール愛好家は対象への切り口が違うなあと感心することしきりだった。

 イベント終了後は都内に泊まり、翌日はある美術館を訪れてから帰ったが、一泊したせいか、それとも学生時代から20代にかけて近くに住み、毎週のように訪れていた下北沢を再訪したせいか、帰りの新幹線に乗ると、胸の奥をひきしぼられるような寂しさにおそわれ、いつまでも窓の外を眺めていた。いつもなら上京した際の帰路は、用事の終わった安ど感につつまれるものだが、今回は東京を離れるのがとてもつらかった。

 

 3回目のイベントとなった昨日の回は、掛川市のビアパブ『Bucket Here』で開催された。掛川駅から近く、このほどビール醸造所も新設したばかりで勢いのある店だ。イベント前に工場見学をさせてもらえると知り、はりきって出かけていった。工場は元々ビアパブだった店舗を改修したということで、やはり駅から至近。ピカピカのステンレスタンクがところせましと並び、稼働するのを待っていた。装置はすべて格安な中国製、静岡市のアオイビールの醸造所を見学して設置の方法などを学んだという。設置工事を担当したのも水道工事業者や友人仲間たち、つまり醸造所設備の専門家ではない人たちが助け合ってつくり上げた醸造設備なのだ。クラフトビールにふさわしい若々しさと気取りのなさに、なんともいえない清々しさを覚えたと同時に、ぜひとも応援していきたいと思わずにいられなかった。

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カジュアルで荒削りな雰囲気がすてきな醸造所内 

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Bucket Here 店内はゆったりとしたソファ席、カウンター席、テーブル席までそろい、とても居心地のいい空間です

business.facebook.com

 

 3回目となるとさすがに我ながら慣れてきて、原稿ばかりでなく、参加者のみなさんのお顔を見ながら話すことができたように思う。がしかし、あきらかに退屈そうな表情を浮かべている方もいて、つらかった。とはいえアドリブで興味を引きそうな話ができるほど器の大きくない自分にはどうすることもできなかった。我慢してすわっていてくださった参加者にはわびるしかない。いっぽう、本を開いては「わ、ここどこ? ラトビア? 行ってみたい! こういうふうに写真が載ってると惹かれるねー」と、うれしいコメントをしてくれる方も。なんといっても原書タイトルは"The world atlas of beer"。読んだら世界のビールをめぐる旅にでかけてほしいというもの。

 この日熊谷氏が話された、アメリカの「レッドフック」というクラフトビール醸造所をめぐるエピソードがなんとも興味深く、やや人間くさいというか笑える部分もあって印象深かった。詳細はふせておくけれど、知りたいと思われる方はぜひ、今後のイベントに参加してほしい。(本書の発売イベントは全国各地であと15回予定されています。

『世界のビール図鑑』発売記念イベント(2018.1.29情報追記)~ニュース/トピックス~ | ガイアブックス(Gaiabooks)

 

 今回は私が訳したもう一冊のビール書籍『世界に通用するビールのつくりかた大事典

』も持参し、少し宣伝させていただいた。その際、冒頭で引用した越前敏弥氏の言葉を痛感することになった。ビール好きな方が集まっていたにもかかわらず、この本の存在はまったく知られていなかったのだ。やはり翻訳者はもっと自分の訳書を大切にし、人々に知ってもらう努力をしていかなければならない。ありがたいことに、『Bucket Here』の店主さんが購入してくださった。ほんとうにありがとうございます。

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http://xknowledge-books.jp/ipscs-book/BooksApp?act=book&isbn=9784767822839

 

 

 これまでに3回参加してきた出版記念イベント。様々な場所でいろんな人々に出会い、箴言ともいうべき言葉と温かい励ましの言葉をたくさんいただいてきた。当初は参加を戸惑っていたけれど、登壇してみて初めて知ったことが数多くある。今後の登壇では、話し方やプレゼンテーションの方法をもっと工夫して、参加者の方々に「聴いてよかった」と思っていただけるようなイベントにしていきたい。